(孫の代わり。それで、いいと思ってた)

うつら、眠った隙に、師は旅に出てしまった。
静かな部屋だ。自分を意識から追いやれば、動くものなど何一つない。
積み上げられた本。散らばった羊皮紙の束。冷たくランプの光を反射する、天球儀。
温もりを与えるはずだった毛布。固い、ベッド。その間に横たわる体。
残されたものは、ひとのかたちをしているのに、まるでひとではないような体。
触れてみても、それまでの暖かさが逃げ出してしまったかのようにつめたい。
眠っているように穏やかで、それでも魂はここにはない。

弟子として拾われた。孫の代わりだと、告げられた。
老いに伏せってからは、軽口のように「告死天使」と呼ばれた。
魂を、天へ帰す儀式。それは自分たちの安らぎのため。
死した後、信じる神の御許へ向かえるという、安らぎのため。
その儀式を執り行えるのは、もう自分だけ。
その儀式の意味を、知っているのは自分だけ。
『間違いなく迷いなく、送ってくれ。お前しか、もう知らぬ』
返したかった言葉は胸の中。

立ち上がれば、わずかに床がきしむ。
耳に忍び込んだその音で、自分が今この場所にいると知る。
これは夢ではないと、現実を突きつけられる。

――そう。師の魂は、旅に出た。

ベッドへ乗り上げて、窓に手をかける。
板戸で閉ざされた窓の外には月明かりが満ちているだろう。
月明かりを導いて、魂がまっすぐに天へ帰るよう、神の賛美を歌う。
星々の明かりに惑わされぬよう、月まで届けと歌い上げる。
まっすぐに、まっすぐに神へと。月という窓の向こうに、魂を送る。
それだけなのに、手が凍ってしまったかのように動かない。

振り向けばそこには師の躯。冷たく、生の残滓をそこに残している。
口を開いた。言葉を吐き出そうとして、唇が震える。
ただ一言、たった一言が欲しかった。
たった一言、尋ねたかった。
それなのにまるで喉に何かが詰まっているかのように、口からあふれない。
まるで胸を何かに縛られたかのように、言葉がこぼれない。

胸に去来するのは、ありふれた日常。
同じ書を紐解き、飽くことなく言葉を重ねた日々。
重なって眠り、食卓を共にした日々。
面倒ごとに巻き込まれては、襲い来る矢から二人で逃げ出したこともあった。
些細なことで口論して、殴り合いに発展し、三日間師が家出したこともあった。
毎日、泣いた。怒った。笑った。
アドロードまで旅をした。生まれ故郷で、出会った。
あの日、導いてくれた、手。
その手は、今や――

振り切るように窓を押し開けた。
とたん降り注ぐは、まばゆいまでの月光。
師を、神の御許へと導く――神の御許へと、連れ去る光。

「天上、地獄、そして四方を川に囲まれし約束の地を統べる主、我が祈りを聞き届けたまえ。
 聖なるかな、聖なるかな、約束の地を統べる主、彼に永遠の安息を与えたまえ――」

光を全身に浴び、声を絞り出す。
喉を震わせ、空へ向け、祈りを響かせる。
願うは彼の人の魂の安息。それは、彼の何よりもの願い。
道半ばにして倒れた彼の、最後の願い。

彼の魂に安らぎを。
例えこの地にその体が腐り果てようとも、
月の光に導かれた魂に、安寧が訪れますように、と――

それを祈るのは、彼の孫の――代わりとして、最後の務め。
共に過ごした日々に、返しきれなかった恩を受けた日々に、
短くも長かった六年間に、感謝を込めて、祈る。

あふれ出すのは祈り。
聞けなかった言葉の代わりに、あふれ出すのは、涙。

(俺は、あんたにとって、孫だった?)