それはきっと何十年か前の物語だ。
見知らぬ世界に飛び出した恐怖と期待の泣き声を祝福する、はじけるような歓声。
どんな子になるだろう、どんな大人になるだろう、どんな道を歩いていくんだろう。
何が得意で何が好きで、なにが嫌いでどんなことに怒るのか。
まだ何にも話せない頃からたくさんの言葉が向けられて、指の小さな動きも言葉に見られて笑われたり頬ずりされたり、めいっぱいの愛情と祝福が注がれた。

だから、そんな日々の始まりを祝うなんて、とんだ「今さら」ってやつだ。
そういうわけだから、準備したこれは、

Many thankful returns of the day.

小さな音を立てて開いた扉を、足音を忍ばせてくぐる。片手にぶら下げているのは必要最低限の灯りを零すランタンと、まだほこりとぬくとさを残すかごだ。そんな暖かみなど徒労といわんばかりに、太陽が顔を覗かせる前に雪を降らしたがる冬の明け方の廊下はひどく寒くて、こんなに人気がなかったのかと驚くほどの寒さが、絆創膏ごしの頬に伝わってくる。ギルドで拾った、毛布だかマントだかよく分からない布を被った手を握り締めた。
誰かが起きた気配もない。ただただ、しんとした冬の家屋。まるで誰もいないような気すらしてくる程の。だからわざと、きし、と僅かな足音を立てた。誰もいない家はひどく寒い、短い一人暮らしの中で嫌というほど思い知ったから、猫の一匹も起きてくれないかと足音を立てた。けれど、足を止めて訪れるのは静寂だ。
(あいつら、番猫にもなりゃしない。)
そんなことを期待してうじゃうじゃと飼っているわけではないけれど、僅かに唇をとんがらせて居間の扉を押し開ける。明け方の冷えた空気の中を走ってきた頬に、静かで冷たい空気は僅かに痛い。薄暗がり、手頼りにテーブルを探る。
目立つように、いつも彼が座っている場所の前を探して半ば手探りで、
(なんだろ。カップかな。出しっぱなしで寝た? 疲れてんのかね。)
指先に触れた冷たいものをそっと除けて、マントの下に忍ばせていた小さなかごを乗せる。そこから取り出した物を並べる。かさり、ことり。小さな音とともに並べ終えれば、満足げなため息をひとつ。
明るい色のかごと布、ぼんやりと暗がりの中にたたずんでいる。

――彼は朝起きてきて、どんな風にこれを見るんだろう?
想像するだけで、ほんの少し笑いがこぼれた。きっと、いつでも飄々としたあの目元を、間が抜けたみたいにまん丸にして、首を傾げるのだ。そうして真っ先に手を伸ばすのは、布を被ったかごなんだろう。
だってその中に入っているのは、カボチャにショウガ、ハチミツ、アーモンド、クルミにハシバミ、それぞれ香りが混ざってしまいそうな、たっぷりのクッキーだから。香りは布越しにもきっと、正体を知らせてくれる。一番最初に手が伸びるのはどれだろう、カボチャかアーモンドか、ともかく彼が好きなものをたっぷり混ぜ込んだどれか。
それからどうするだろう? うん、クッキーをひとつくわえてから、きっと手紙に手を伸ばす。
もともと汚い字は最近もっと汚くなったけれど、それでも何度も書き直して読めるように書いたのだ。相変わらず汚い字ね、なんては思われるかもしれない。そんな汚い字で綴った文字の束、彼はどんな表情をするんだろう。
手紙を読む彼の表情も仕草も想像できないけれど、はっきり判っていることは、最後に訝しげに小箱を開くということ。つまみ出した珊瑚の色の髪紐と、その端にぶら下がった鴉の羽に、きっとまたひとつ瞬きをして首を傾げるんだろう。

そんな風に彼の動きを思い描く。その一つ一つは未来の話だけれど、導き出すのは今まで彼が歩んだ軌跡だ。それを僅かながらに見てきたから、そんな風に想像した。だって、今日は彼の誕生日だ。適当に天球儀を回して決めた誕生日だけれど、彼もそれでいいといったから、今日は彼の誕生日なのだ。

誕生日、その日は軌跡に、
そして、この日も軌跡に。

くつりと笑いがまた洩れた。絶対忘れてるだろうけれど、だから最初は訝しがるに決まってる。
だって彼が生まれたのはずっとずっと昔で、自分は生まれてすらいない。遠い遠いその日に満ちた溢れるほどの祝福に、今さら届くわけなんてない。どうあがいたって生まれた日の祝福には追いつかないし、居合わせられないんだから、込めるべきは祝福よりも、むしろ、
(ありがとー、なんだよ)
笑いの声に混ぜるように胸中で呟いて、そうだ、とかごを探る。取り出した小さな蝋石を片手に、手紙を開いた。言葉を綴った最後に書き足したのは、

『そねから、いちほんたいせつなこと。
ごはんはきさんとたベるように。
げんきでいれば、それでいいよ』

……急いで書き足した文字は所々間違えたけれど、まあいい、きっと伝わる。こんな鏡文字も誤字も彼は見慣れてるだろうから。蝋石を手の中へと転がして、手紙を元通り折り閉じる。
そうして「よし」なんて一人ごちてから、静かにきびすを返した。寒さを追い出すためじゃなく、薄汚れた毛布を掻きあわせてそっと扉を開き、足音を忍ばせて、また鍵をかけて。

プレゼントも置いたし、メッセージカードには少しばかり花のない手紙も置いたし、あとは朝方、彼が見つければそれで完璧だ。家の玄関、後ろ手に扉を閉めて「うし」なんてもう一度一人ごちた。
目一杯、驚くくらいのパーティを、なんて考えていたけれど、
(流石にやってる場合じゃないしねえ。)
ほう、と息を吐き出す。今も雪が降り出しそうな夜空、くるくると回って昇っていく白い息を見上げながら歩いていく。その息が消えたころもう一度、ほう、と息を吐き出して。
宛名も差出人もない手紙とプレゼントを残して、夜道を歩いていく。
いいんだ、誰から誰へなんて、添えたクッキーが示してくれるんだから。

それが今日の物語だ。
生まれたあの日の祝福には届かないから、それよりも感謝を。
悲しいことも辛いことも嬉しいことも切ないことも、一切合財ひっくるめて、溢れるほどの感謝を。
はじける様な歓声は次の機会を楽しみに。これからの日々に祈りを込めて。
いい年こいて頬ずりだなんてちょいと的外れ。
(ありがとうって、あんたが生きてることに感謝してるのがいるんだよ。
なにがあってもそいつを忘れんな、そんな気持ちを込めたプレゼント。
なにがあってもそいつを忘れなきゃ、あんたは大概大丈夫。そんな信頼も込めて。)

『きょうまでのきせきのきせきにかんしゃを。
これからのきせきのきせきにしゅくふくを。

うまれてきてくれて、ありがとう。
いきていてくれて、ありがとう。
かんしゃをこめて、しゅくふくをおくります。
きょうもあしたもあさっても、
しあわせがともにありますように。』