困った。と、ジョージは内心で呟いていた。
「スラム育ち舐めんなよー?」
目下ジョージを困らせている当の本人は、足元の穴倉の底からのん気な声をかけてくる。
深さは約大人の身長一人分と半、姿は見えねども
時折土を掘り返す音が響いてくるのは、――暇になって遊んでいるのだろう。
フォースタスの魔術は理論が第一、とはいえ、集中力も必要だ。魔力の流れを感じ取る才能がないならば、
なおさらのこと。そのための修行として、いかなる時も瞬時に集中できるよう、わざと極悪な環境に弟子を放り込む――
少々無体な修行だが、ジョージも見習い時代に経験した。頭から水をかぶせられたり、
三日間食料も水も与えられなかったり、五日ほど眠ってはいけないと命じられたり――思い出すだに胃が痛む。
けれど、この弟子はある意味、その方面にだけは長けている……というか、慣れきっている。
水に放り込んでも食事を抜いても、文句は垂れるが集中力が衰えることはない。
その上、なまじ一瞬の判断だけで生き延びる術に頼ってきたせいだろう、その瞬間的な集中力には目を見張るものがある。
もっとも、あまりにも瞬間的過ぎて持続力は皆無だけれど。おかげで今も退屈そうに、穴倉の底で鼻歌を歌っている。
もう一度ため息をついた。
集中力があるということは、別にこの修行をしなくてもいい……そう考えてもいいのだけれど、
実際のところ、彼の集中力はその育ちに起因している。常に死と隣り合わせのスラムでの生活が遠ざかれば、
自然と集中力も衰えていくだろう。
その為にも「ただ何となく慣れた」劣悪環境よりも、「修行での」劣悪環境に叩き込まなければならない。
――というのは建前で、本音はあっさりと次の段階に進まれるのが、面白くないだけだ。
文字を覚えるのも人並み以下、覚えた今も間違い字や鏡文字を当たり前のように書いて、
魔術言語を教えるにいたっては「こんなの人間の言葉じゃねえ」とぶつくさ文句を言っている、
落ちこぼれ弟子。馬鹿な子ほど可愛いというが、それに似たようなものだ。
せめて一言、ぎゃふんと言わせたい。大人げない対抗心を燃やして、ジョージは腕を組んだ。
死者を隣にしての集中――
一番弟子のコールは何よりも嫌がったものだが、あの末弟子は死体など見慣れているだろう。
自分が一番辛かったのは色っぽい娼婦たちの中での集中だが、末弟子は娼婦の中で育っている。
何を今更、というところだろう。
だからと言って熊の巣穴に放り込むのは、さすがに危険だ。
ぎゃふんと言わせたいのであって、死なせたいわけではない。
この、ほどほどのラインというものがひどく難しい。追い詰めなければいけないのは精神的にであって、
肉体的にではない。教育というものは、何人育てても大変だ――そんな一般論に落ち着きかけて、
慌てて思考を元に戻すべく、首を振った。
首を振った矢先、足元を走る小さな影が目に入った。時折見かける虫だ。
もともと森の中にいたのか、それとも森の中の一軒家に住み着いてしまったのかわからないが、
嫌いな人間はとことん嫌いだという虫。幸いにして自分もあの弟子も、虫一匹に動揺するほどか細い神経はしていない。
何となく邪魔に思って、足元の穴倉にその虫を蹴りこむ。
至極あっさりと落ちていった虫の事などあっという間に記憶から消え――るはずだった。
「うわ? ――なんだ、ゴキかよ」
穴倉の底から、やはりあっさりと興味を失ったらしい声と、べしん、という地を踏み鳴らす音が聞こえた。 潰したな、などとぼんやりと考えて、ふと思いついた。
一匹ならあっさりと潰す。……だが、大量にいたらどうだろう?
わさわさと大量のゴキブリが蠢いている中に放り込まれれば、さすがに動揺するだろう。 問題は、あの手の虫は狭い場所に巣を作るから、放り込めないことか―― それならば、発想を逆転させればいい。大量に集めてきて、それと知らせず頭の上から放り込んでやれば効果はてき面だ。 ついでに虫が穴倉の壁を伝って逃げることを防ぐべく、上から蓋でもしてやれば、 恐らくゴキブリ退治に無心にならざるをえまい。
自分の考えた作戦に、ぽんと手を打った。何、虫を集めるなど使い魔の猫に任せればいい。 天性のハンターならば、一晩もあれば木箱一杯もの虫を集めてくるだろう。
「おい。お前、明日までそこにいろ」
「えー、暇なんだけど。っつーか飽きた」
「瞑想してろ。それが修行だ」
「へいへい。わかったよ……」
明らかにしぶしぶという口調の弟子の応えを確認し、穴倉からきびすを返す。
意気揚々と使い魔を呼び寄せ、とにかく大量のゴキブリを、と命じた。
そして日が沈み、再び昇って――……
数日後。
たった一匹のゴキブリで絶叫した弟子に、失敗した。と、ジョージは内心で呟いていた。