馬も馬車も、掲げられたランタンに照らされてぼんやりと青く光っていた。
窓から覗き込めば、誰もが笑顔で何事か話している。馬車の天井からぶら下がるランタンはほのかな明かりを灯していて、その中はとても暖かそうだった。

御者が間もなくの出発を告げ、ベルを鳴らす。
チリンチリンと鳴らされるベルは、優しく響いていた。

両手に抱えた荷物は、乗降口へと走る足を邪魔した。
チリリ、チリリとベルに急かされながらも、ああ、この街の人に別れを告げていないと気付く。
窓の中で知らぬ誰かと歓談する師の姿に、勝手に心配になった。あのずぼらな師のことだ、世話になった誰かに挨拶になど行っていないだろう。たった数年の付き合いだけれど、その間、師の尻拭いはやってきた。急いで、せめて一番世話になった誰かに、そう思えば街を振り向いてしまった。

たくさんの荷物と、まだ別れを告げていない街。
急がないと、馬車は出てしまう。
荷物をかなぐり捨てればいい、街には手紙を出せばいい。
――気づいた時には、扉は閉まっていた。

扉を叩いた。御者が席に座る。ぴしり、と鞭を打つ音が聞こえる。
それでも扉を叩いた。 荷物など投げ捨てて、何度も何度も叫んで扉を叩く。
それでも、中で笑いさざめく師は振り向きもしない。

ガタリと動き出した車輪。よろめいて地に膝をつく。
遠ざかっていく馬車に、すりむいた膝を庇いもせずに走り出した。
息を切らして追いかけても、馬車はみるみる遠ざかっていく。
青い馬車がついには夜霧の中に消えて、立ち止まる。

走りすぎたせいで息が乱れて、胸が苦しかった。
街の灯りは夜霧の中にぽつぽつと浮かび上がり、なんだかひどく悲しかった。
ずいぶん走った気がしたのに、抱えていた荷物が足元に転がっていた。
悲しくて寂しくて、それでも荷物を拾い上げた。

そんな自分の耳に、あのベルの音は聞こえなかった。

そんな夢を見て、現でため息をついた。
二度と主の帰らないベッドは冷たいまま。
一人には広すぎる家は、ひどく寒々しい。
――それでも。

何も持たずに逝ったあの人は、笑っていた。 荷物に足を取られて街に未練を残した自分は、生きている。
ゆっくりと、目を瞑った。
たくさんの荷物と共に残された意味。あの人が笑っていた意味。

それを間違わないよう、勘違いしないよう――自分に言い聞かせた。